ホーム解説記事 › 背番号10はストライカーの番号ではない
初心者ガイド

背番号10はストライカーの番号ではない|元は左から2人目のFW

更新:2026年7月15日 / ワールドカップ編集部 / 約15分で読めます
メッシもエムバペも10番。だから「10番=エース」だと思われている。だが1928年当時、10番は「左から2人目のFW」に過ぎなかった。特別になったのは1958年、ペレが優勝してからだ

この記事の要点

  • 1928年の10番は「左から2人目のFW」
  • WMで中盤に下がり、作る役になった
  • 特別になったのは1958年のペレから
  • 決まっているのは「1番はGK」だけ

初心者メモ

Q. 背番号は自由に選べる?

ワールドカップで決まっているのは「1番はGK」だけで、あとは各国が自由に割り振ります。10番が特別なのは規則ではなく、ペレ以降に積み重なってきた慣習です。

この記事の数字:1928年に番号が決められた当時、10番は「左から2人目のFW」でしかなかった。

スポンサーリンク

結論——10番の元の意味は「左から2人目のFW」

背番号が導入された当時、番号は選手を見分けるための記号でしかなかった。ゴールキーパーを1番として、前に行くほど数字が大きくなるよう機械的に割り振られただけである。当時主流だった2-3-5(V字フォーメーション)に沿うと、こうなる。

図:1928年の背番号配置(2-3-5)

10番は左から2人目のFW——ストライカーは9番だった

1GK3レフトバック2ライトバック6レフトハーフ5センターハーフ4ライトハーフ11レフトウィング10インサイドレフト9センターFW8インサイドライト7ライトウィング上が攻撃方向。10番=インサイドレフト(左から2人目のFW)

図は編集部が作図(画像の転載ではない)。当時は配置がそのまま番号だった。1がGK、後ろから順に2-3、4-5-6、前線が7から11。

番号ポジション(当時の呼び方)
1ゴールキーパー
2 / 3ライトバック/レフトバック
4 / 5 / 6ライトハーフ/センターハーフ/レフトハーフ
7ライトウィング
8インサイドライト
9センターフォワード ← ストライカーはこっち
10インサイドレフト ← 左から2人目
11レフトウィング

並べてみれば一目瞭然だ。9番がセンターフォワード、つまりストライカー。10番はその左隣。「10番=点取り屋」という理解は、出発点からしてずれている。

THE ANSWERの連載で、長年サッカー取材を続けてきた荻島弘一氏はこう書いている。背番号が登場した100年ほど前は2-3-5で、10番はFWの左から2人目。昔の言い方で「レフトインナー」と呼ばれる選手がつけることが多かった——と。

1928年、アーセナル対チェルシー

そもそも背番号は、サッカー発祥のものですらない。

1897年、オーストラリア・ブリスベンで行われたラグビーのクインズランド対ニュージーランド戦で使われたのが契機となり、イギリスでもサッカーで使うべきだという議論が起きた。そして1928年、イングランドリーグのアーセナル対チェルシー戦で、サッカー史上初めて背番号つきのユニフォームが登場した。

面白いのは、当時の評判だ。チーム関係者からは「数字がチームカラーをスポイルする」として不評だった。一方で観戦者には概ね好評だった——プログラムブックを見なければ誰が誰だか分からない、という不満を抱えていたからだ。日本サッカー協会の資料によれば、イングランドリーグに正式導入されたのは1939年からである。

つまり背番号は、美的センスの問題として反対され、観客の利便性のために採用された。誰も「エースの証」を作ろうとしてはいなかった。

10番が中盤に下がった日——WMフォーメーション

1930年代、イングランドで3-2-2-3の「WM」が一般化する。このとき番号の意味が動いた。

WMで起きた配置転換
5番のセンターハーフ → 最終ラインの中央へ下がる
8番と10番のインサイド → 中盤(ハーフバック)へ下がる
中央に残った9番 → センターフォワード

ここが分岐点だ。10番は前線から中盤に下がり、「ゴールを取る役」ではなく「ゴールを作る役」になった。7番が右、11番が左のウイング、9番が中央のストライカー。この配置とセットの番号が、ヨーロッパ全体に広まっていく。

荻島氏は「今大会の各チームをみても当てはまる選手がたくさんいます(もちろん、例外もありますが)」と書いている。実際、2026年大会でもそうだ。

選手背番号役割今大会
ハリー・ケイン(イングランド)9センターフォワード6得点
ジュード・ベリンガム(イングランド)10中盤から仕掛ける6得点

← 横にスクロールできます

90年以上前の配置が、いまも生きている。9番と10番が同じ6得点というのは偶然だが、二人の立ち位置は今も「センターフォワード」と「その後ろ」のままだ。

1958年——17歳のペレと、諸説ある10番

では、10番はいつ特別になったのか。答えははっきりしている。

1958年 スウェーデン大会
17歳のペレが10番で6得点
ブラジルが初優勝

ブラジルはこの大会を4-2-4で戦い、前線の中央に9番と10番が並ぶ形だった。だがペレはポジションに縛られず相手陣内を動き回り、チャンスにもフィニッシュにも絡んだ。このプレースタイルから「10番=チームのエース」というイメージが生まれ、同時に「10番タイプ」という言葉が確立していく。

ただし、なぜペレが10番だったのかは分かっていない

ここは正直に書いておきたい。ペレが10番になった経緯には、複数の説がある。

内容
監督が与えた説ブラジル代表のビセンテ・フェオラ監督が、この大会でペレに10番を与えた
抽選説当時のブラジル代表は背番号を抽選で割り振っており、ペレの10番は全くの偶然だった
大会側の割当説ブラジルが番号の提出をめぐって混乱し、大会側が割り当てた結果10番になった

国立国会図書館のレファレンス協同データベースには、複数の書籍の記述が収録されている。書籍『ワールドカップ』は「ブラジル代表のビセンテ・フェオラ監督は、この大会でペレに『10番』の背番号をあたえた」とし、「それまではポジションをあらわす数字でしかなかった背番号」がこの大会で「エースナンバーとして定着していく」と説明する。一方、抽選や大会側割当を伝える記事も複数ある。

どれが正しいのかは、編集部には断定できない。ただし、どの説を取っても結論は変わらない。10番が特別になったのは、番号に意味があったからではなく、その番号をつけた選手が凄すぎたからだ。順番が逆なのである。

書籍『背番号10』の序言には、こう書かれている。1958年以来、ペレが1977年に引退するまでに、背番号10はチームの「主」と同義語となり、誰でもつけられる番号ではなくなった——と。

そして1986年、マラドーナ

10番の位置づけを決定的にしたのは、1986年メキシコ大会のディエゴ・マラドーナだ。「神の手」と5人抜きゴールで大会を独占し、アルゼンチンを優勝に導いた。1982年のジーコを挟んで、ペレ→ジーコ→マラドーナという「10番タイプ」の系譜ができあがる。

いまのルール——唯一決まっている「1番」

ここまで歴史の話をしてきたが、では現在はどうなっているのか。結論から言えば、W杯で決まっているルールは実質ひとつしかない。

W杯の背番号ルール
1番をGKにする——決まっているのはこれだけ
あとは自由

荻島弘一氏の解説によれば、W杯で選手に固定の背番号がつくようになったのは1954年スイス大会から。誰が何番をつけるかは自由だが、条件が2つある。

  • 1から順に、登録選手数までの番号を使う——26人の今大会では27以降の番号は認められない
  • 空き番号を作れない——1998年大会は登録22人で、最大の22番をつけたのは平野孝だった

そして「1番はGK」というルールが決められたのは、2010年南アフリカ大会からである。つまり、それ以前は決まっていなかった。

1番をつけたMF

証拠がある。1982年スペイン大会で、アルゼンチンのMFオスバルド・アルディレスは1番をつけてプレーしている。

理由は、当時のアルゼンチンが選手名のアルファベット順に番号を振っていたからだ。1970年代のオランダも同じ方式だった。ただし例外はあり、クライフの14番とマラドーナの10番は特例として固定された。アルファベット順なら、マラドーナ(Maradona)が10番になる保証などない。1982年の時点で、すでにマラドーナの10番は「動かせないもの」として扱われていたということになる。

2〜6は守備、7〜11は攻撃——いまも同じ

荻島氏はこう指摘する。最後尾のGK1番から前線の11番まで順に番号を付けていったという歴史的な背景があるため、現在でも2〜6など小さい番号はDFや守備的MF、7〜11の大きな番号は攻撃的MFやFWがつけるのが一般的だ、と。

つまり1928年に2-3-5へ機械的に振っただけの並びが、100年近く経ったいまも生きている。誰も決めていないのに、みんなが従っている。なお最近は、マーケティングの狙いもあって珍しい番号をつけることは少なくなったという。

誰が決めるのか——監督ではない

意外に知られていないが、背番号を決めるのは監督ではない。各協会である。

日本代表の場合、選定は日本サッカー協会の担当者が行う。各選手の所属クラブでの番号などを基に原案を作り、監督を含むチームスタッフが承認し、選手側に通達する——というのが一般的な流れだ。監督やスタッフ、さらにスポンサーの意見が取り入れられることもある。

選手の希望が通ることもある。ただし条件がある。スポーツ報知によれば、それには「代表活動での実績が必要」だという。実例が分かりやすい。

上田綺世はかねて18番を熱望していたが、9番でのプレーが続いていた。ゴールを量産してエースの座を確立したことで事実上の「交渉権」を獲得し、2025年10月の活動から18番に変わった。本人はこう明かしている。「ようやく受け入れてもらえるタイミングが来た」——父が社会人リーグで背負っていた、憧れの番号だった。

番号は、希望すればもらえるものではない。実績と引き換えに得るものだ。この事実は、このあとの2つの話につながっていく。

日本代表の10番——ラモスから堂安までの系譜

時期選手備考
1992〜1995ラモス瑠偉1992年アジアカップ優勝
1996〜2000名波浩1998年フランスW杯で全3試合先発
2001三浦淳宏
2002中山雅史日韓W杯
2003〜2010中村俊輔2008年は山瀬功治
2011〜2018香川真司2014年ブラジルW杯
2019中島翔哉/乾貴士森保体制の初陣から
2020〜2021南野拓実9番から10番へ
2021〜堂安律2026年北中米W杯

1998年——名波とジダン

日本が初めてW杯に出た1998年フランス大会。日本の10番は名波浩で、左足を操る技巧派のゲームメイカーとして全3試合に先発し、中盤に君臨した。

同じ大会で、開催国フランスの10番だったジネディーヌ・ジダンが優勝を果たす。JFAの資料は、この大会が「10番イコール中心選手」というイメージを強めた大会でもあった、と書いている。日本がW杯に初参加した年に、世界では10番の神話がもう一段強化されていた。

2002年——10番をつけた「9番の選手」

系譜のなかで、ひとつだけ明らかに異質な年がある。2002年の日韓W杯、10番は中山雅史だった。

中山はゴール前の嗅覚で得点を量産する、生粋のゴールハンタータイプである。本記事の分類で言えば、どう見ても「9番の選手」だ。この大会は、当時の司令塔だった中村俊輔が落選し、ベテランの中山がサプライズ選出された大会でもあった。

つまり日本代表においてすら、10番は必ずしも「司令塔の番号」として運用されてきたわけではない。

2026年——堂安律

今大会、日本の10番は堂安律(フランクフルト)が背負った。久保建英が8番、田中碧が7番、GKの鈴木彩艶が1番である。

10番を継いだとき、堂安はこう語っている。「今まで背負ってきた南野拓実くんとか、香川真司くん、中村俊輔さんとか、彼らの真似でなく、堂安律にしか出せない色で10番像を」「こびない10番でいたい」

本田圭佑とミランの10番——「奪った」のではない

日本人と10番といえば、避けて通れない話がある。2014年、本田圭佑がACミランの10番を背負った件だ。

この話は「本田が身の丈に合わない番号を要求した」という形で語られることが多い。だが、事実は違う。

本田の第1希望は「4番」

ミランのアドリアーノ・ガッリアーニCEOによれば、経緯はこうだった。

希望結果
第1希望:4番(日本代表での番号)サリー・ムンタリが着用中のため断念
第2希望:7番(CSKAモスクワでの番号)ロビーニョが着用中のため断念
10番ガッリアーニCEOが提案し、本田が受け入れた

ケビン=プリンス・ボアテングがシャルケへ移籍して10番が空いていた。そこにクラブ側が本田を当てはめた。本田が奪ったのではなく、クラブが差し出したのである。

ただし本田は、断ることもできた。断らなかった。2014年1月10日、サンシーロのレセプションルームで行われた入団会見で、本田はこう言い切っている。「自信がないと10番は要求しないし、駄目だった時の反動も全て理解している」

彼が背負った10番の前任者たちは、こういう顔ぶれだ。ジャンニ・リヴェラ、ルート・フリット、デヤン・サヴィチェヴィッチ、ズヴォニミール・ボバン、マヌエル・ルイ・コスタ、クラレンス・セードルフ。

3年半の結果

『Opta』が集計したデータによれば、ミランでの成績はこうだった。

シーズン順位出場(先発)得点
2013-148位14(12)1
2014-1510位29(26)6
2015-167位30(23)1
2016-176位8(2)1
通算(3年半)9得点

← 横にスクロールできます

初ゴールは加入から3か月後、2014年4月のジェノア戦までかかった。2年目は開幕から絶好調でリーグ第7節までに6得点2アシストを記録したが、その後は沈黙した。イタリア衛星放送『Sky Sport』は本田をこう評している。「背番号によって誇張された、ミランのもうひとりの大きな流れ星」

本田自身も厳しかった。2014年最終戦の後、ミランの10番として過ごした1年間を5段階評価の下から2番目と総括している。「常に自分を出すことがミランの10番としては求められている。その期待に応えられていない試合が多い」

ここからは編集部の見方

ただし、数字だけを冷静に見ると、話は少し変わる。

通算9得点は、セリエAでプレーした日本人のなかで4番目の数字だ。上には中田英寿の24点、森本貴幸の19点、中村俊輔の11点しかいない(インテルの長友佑都と並ぶ)。そして4シーズン連続で得点を挙げたのは、日本人として初めてだった。「大失敗」と呼ぶには、数字が合わない。

では何が問題だったのか。数字ではなく、番号が作った期待値だ。Sky Sportの「背番号によって誇張された」という表現が、それを正確に言い当てている。同じ9得点でも、18番なら「まずまず」で済んだかもしれない。10番だから「足りない」になった。

ここで、この記事の本題に戻ってくる。10番には、もともと意味などなかった。2-3-5の左から2人目という、事務的な記号でしかなかった。それを17歳のペレが——おそらく偶然に——特別なものにした。マラドーナが神話にした。そして68年後、その積もった意味が、一人の日本人選手を測る物差しとして機能した。

番号は数字にすぎない。だが数字に意味が積もると、それは重さを持つ。本田圭佑のミラン時代は、その重さが実際に何をするのかを示した、日本サッカー史でいちばん分かりやすい事例だと思う。

番号にまつわる、もう少し細かい話

1993年——番号が「個人のもの」になる転機

それまで背番号は、試合ごとにポジションに応じて割り振られるものだった。1993年にプレミアリーグが固定背番号制を導入し、番号が個人に紐づくようになる。ここで初めて、サッカーに「永久欠番」の概念が生まれた。ナポリの10番(マラドーナ)、マンチェスター・シティの23番(フォエ)、バイエルンの5番(ベッケンバウアー)などがある。

クライフが14番を選んだ理由

ヨハン・クライフはもともとアヤックスで9番をつけていた。1970年のPSV戦の直前、7番のチームメイトがユニフォームを失くして探し回っている場面に出くわし、クライフは自分の9番を渡して、控え用の14番を着て試合に出た。その試合に1-0で勝ったため、験担ぎで14番を使い続けた。

後にクライフはこう語っている。「9番はディ・ステファノ、10番はペレの番号だから」。すでに1970年の時点で、10番は「他人の番号」になっていた。

セリエAで88番が禁止された理由

セリエAは1番から99番まで自由に選べる。選手は99番のような大きな数字をつけたり、自分の生年の下2桁を背番号にしたりする。ただし88番だけは、2023-24シーズンから使用が禁止された。ナチス・ドイツを想起させる、というのが理由である。

番号は単なる数字ではない。数字に意味を読み込むのは人間の側であり、その意味は、ときに競技の外側からやってくる。

2026年の10番たち

選手代表今大会
リオネル・メッシ🇦🇷 アルゼンチン通算21得点で歴代1位
キリアン・エムバペ🇫🇷 フランス通算20得点で歴代2位
ジュード・ベリンガム🏴󠁧󠁢󠁥󠁮󠁧󠁿 イングランド6得点

W杯通算得点の1位と2位が、どちらも10番。1958年に17歳の少年がつけた番号は、68年後もまだ、その国のいちばん重要な選手のところにある。

ここからは編集部の見方

この話がおもしろいのは、「制度」が「文化」に変わる瞬間が特定できるからだ。

1928年の背番号は、純粋な事務処理だった。観客が選手を見分けられないから、番号を振った。2-3-5に沿って左から順に割り当てただけで、10番に思想はない。むしろ「チームカラーをスポイルする」と嫌われていた。

それが1958年の一大会で反転する。17歳の少年が6得点して優勝しただけで、事務処理用の記号が神話になった。しかも、その少年がなぜその番号だったのかは、いまだにはっきりしない。監督が与えたのかもしれないし、くじ引きだったのかもしれない。

つまり10番の神話は、偶然の上に建っている可能性がある。それでも68年間、世界中の子どもが10番に憧れ、クラブは10番を空けて待ち、クライフのような選手ですら「10番はペレの番号だから」と避けた。意味が先にあって記号がついたのではなく、記号に後から意味が積もった。

そう考えると、「10番=ストライカー」という誤解も、そんなに的外れではないのかもしれない。もともと正しい意味などなかったのだから、いま多くの人がそう思っているなら、それもまた10番の意味の一部になっていく。

まとめ

  • 背番号は1928年、アーセナル対チェルシー戦で初登場。観客が選手を見分けるための事務的な措置だった
  • 2-3-5では9番がセンターフォワード(ストライカー)、10番はインサイドレフト(左から2人目)
  • 1930年代のWMで8番と10番が中盤に下がり、10番は「作る役」になった
  • 1958年、17歳のペレが10番で6得点し優勝。ここから10番が特別になった
  • ただしペレがなぜ10番だったのかには諸説あり、監督が与えた説・抽選説・大会側割当説がある

7月16日、アルゼンチンの10番がイングランドの10番と対戦した。メッシとベリンガム。結果はアルゼンチンの2-1。メッシは得点しなかったが、逆転の2得点はどちらも彼のクロスから生まれた。10番は点を取る番号ではなく、作る番号だった——という本記事の結論を、そのまま体現する試合になった。1958年に生まれた番号の物語は、まだ続いている。

スポンサーリンク

参考資料・出典

本記事の作成にあたり、以下の情報源で事実を確認しました。ペレの背番号10の由来については情報源によって説が分かれるため、本文中に併記しています。データは2026年7月15日時点のものです。

  • Wikipedia(サッカーの背番号)サッカーの背番号確認した内容:1897年オーストラリア・ブリスベンのラグビー(クインズランド対ニュージーランド戦)での使用が契機となった点、1928年のイングランドリーグ アーセナル対チェルシー戦でサッカー初の背番号つきユニフォームでの試合が行われた点、チーム関係者から「数字がチームカラーをスポイルする」として不評だったが観戦者には概ね好評だった点、2-3-5に沿ってGK1・ライトバック2・レフトバック3・ライトハーフ4・センターハーフ5・レフトハーフ6・ライトウィング7・インサイドライト8・センターフォワード9・インサイドレフト10・レフトウィング11と割り振られた点、1930年代のWM(3-2-2-3)で5番のセンターハーフが最終ラインに下がり8番と10番がハーフバックに加わった点、ブラジルが4-2-4で1958年W杯を制覇しペレの10番からエースナンバーのイメージが広がった点、1993年にプレミアリーグで固定背番号制が導入され永久欠番の概念が登場した点(ナポリの10番・マンチェスター・シティの23番・バイエルンの5番)、セリエAで88番が2023-24シーズンよりナチス・ドイツを想起させるとして使用禁止となった点
  • THE ANSWER(荻島弘一氏)サッカーのエースはなぜ背番号「10」? ブラジル伝説の影響大、昔は「レフトインナー」の番号【W杯トリビア】確認した内容:「背番号10がエースなのはなぜ?」への答えが「ペレが10番をつけたから」である点、背番号がもともと選手判別のためのもので当初は並び順でGKの1から左ウイングの11まで付けていた点、背番号が登場した100年ほど前は2-3-5で10番はFWの左から2人目の「レフトインナー」だった点、その後FWが3人になり両インナー(8番と10番)がハーフバック(MF)の位置に下がり中央に残った9番がセンターFW・7番が右・11番が左のウイングとなった点、今大会の各チームにも当てはまる選手が多い点
  • 日本サッカー協会(JFA)背番号の歴史 ~ワールドカップと背番号の変遷 前編~確認した内容:最初に背番号の使用が確認されたのがオーストラリアである点、イングランドで試験的に行われた後1939年からリーグ戦に正式導入された点、当時の背番号はポジションで割り振っていたため選手は試合ごとに違う番号を背負っていた点、背番号導入当時はオフサイドのルールが現在と異なり2-3-5(V字フォーメーション)が主流だった点、1958年のブラジルが4-2-4で前線の中央に9番と10番が並ぶ形だった点、ペレがポジションに囚われず動き攻撃の中心として多くのチャンスやフィニッシュに絡んだ点、このプレースタイルから10番がエースナンバーとして認識され「10番タイプ」が確立された点、その系譜が1982年のジーコ、1986年のマラドーナへ続く点
  • レファレンス協同データベース(国立国会図書館)サッカーの背番号10はいつからエースナンバーか。確認した内容:書籍『ワールドカップ』に「ブラジル代表のビセンテ・フェオラ監督は、この大会でペレに『10番』の背番号をあたえた」「それまではポジションをあらわす数字でしかなかった背番号」がこの大会でエースナンバーとして定着していくとの記述がある点、書籍『背番号10』の序言に「1958年以来、ペレが1977年に引退するまでに、背番号10はチームの『主』と同義語となり、誰でもつけられる番号ではなくなった」との記述がある点、1958年大会でペレが17歳で6得点を挙げ母国に優勝をもたらした点
  • note(QuintupleOneDay)サッカーの背番号と戦術発展の歴史の不思議な関係 後編〜スーパースターの系譜〜確認した内容:当時のブラジル代表が選手の背番号を抽選で割り振ったためペレが10番になったのは偶然だったとする説がある点、クライフがもともとアヤックスで9番をつけていた点、1970年のPSV戦直前に7番のチームメイトがユニフォームを失くしクライフが自分の9番を渡して控えの14番を着用し1-0で勝ったため験担ぎで14番を使い続けた点、クライフが「9番はディ・ステファノ、10番はペレの番号だから」と語った点
  • Soccer Book Libraryサッカー背番号10はなぜ特別?歴史と現代戦術で読み解く確認した内容:1958年W杯でブラジルが番号の提出をめぐって混乱し大会側の割り当てでペレが10番になったというエピソードが広く知られている点、割当ての経緯には諸説がある点、固定背番号の運用が広がったことで選手と番号が結びつき「10番=チームの顔」という構図が強まった点
  • ゲキサカサッカー イングランド代表 最新メンバー確認した内容:2026年W杯イングランド代表でハリー・ケイン(バイエルン)が9番、ジュード・ベリンガム(レアル・マドリー)が10番を着用している点
  • THE ANSWER(荻島弘一氏)サッカーW杯の背番号はどう決める? 1番のみルールあり、かつてはアルファベット順採用の強豪も【W杯トリビア】確認した内容:「背番号はどうやって決めるの?」への答えが「1番をGKにする以外は自由」である点、W杯で選手に固定の背番号が付くようになったのが1954年スイス大会からである点、1から順に登録選手数までの番号を使い26人の今大会では27以降の番号が認められない点、2010年南アフリカ大会から「1番はGK」というルールが決められた点、番号を決めるのが各協会であり監督やスタッフ・スポンサーの意見が取り入れられることもある点、最後尾のGK1番から前線の11番まで順に付けた歴史的背景から現在でも2〜6など小さい番号はDFや守備的MF・7〜11の大きな番号は攻撃的MFやFWがつけるのが一般的である点、最近はマーケティングの狙いもあって珍しい番号をつけることが少なくなった点、70年代のオランダと70〜80年代のアルゼンチンがアルファベット順を採用していた点、クライフの14番やマラドーナの10番が特例として固定された点、1982年スペイン大会でアルゼンチンのMFアルディレスが1番をつけてプレーした点
  • スポーツ報知(Yahoo!ニュース経由)【W杯】日本代表の背番号はどうやって決まる? 選手の希望は通るのか…確認した内容:日本サッカー協会が2026年5月27日に北中米W杯に臨む26人の背番号を発表した点、10番が堂安律(フランクフルト)・8番が久保建英・7番が田中碧・1番が鈴木彩艶(GK)である点、背番号の選定を監督ではなく日本協会の担当者が行い各選手の所属クラブでの番号などを基に作成された原案を監督を含むチームスタッフが承認し選手側に通達するのが一般的な流れである点、選手側の希望を受け入れるケースもあるがそれには代表活動での実績が必要である点、上田綺世がかねて18番を熱望しながら9番でのプレーが続いていたがゴール量産とエースの座の確立で事実上の「交渉権」を獲得し2025年10月の活動から18番になった点、上田が「ようやく受け入れてもらえるタイミングが来た」と明かし父が社会人リーグで背負っていた憧れの番号だった点
  • サッカーぶんがくサッカー日本代表歴代10番を一挙紹介!あなたの背番号「10」はだれですか?確認した内容:日本代表の歴代10番がラモス瑠偉(1992〜1995)、名波浩(1996〜2000)、三浦淳宏(2001)、中山雅史(2002)、中村俊輔(2003〜2010)、山瀬功治(2008)、香川真司(2011〜2018)、乾貴士(2019)、中島翔哉(2019)、南野拓実(2020〜2021)、堂安律(2021〜)と推移している点
  • SOCCER MOVEサッカー日本代表・歴代10番総まとめ!最も10番が似合うのは誰だ!?確認した内容:中山雅史が2002年日韓W杯で10番を背負った点、中山のプレースタイルがゴール前の嗅覚でゴールを量産する生粋のゴールハンタータイプで9番のイメージが強い点、2002年大会が当時の司令塔・中村俊輔の落選とベテラン中山のサプライズ選出が起こった大会である点、堂安律が10番継承時に「今まで背負ってきた南野拓実くんとか、香川真司くん、中村俊輔さんとか、彼らの真似でなく、堂安律にしか出せない色で10番像を」「こびない10番でいたい」と語った点
  • フットボールチャンネルミランの背番号「10番」が意味するもの。歴代選手が示すエースの存在意義確認した内容:ミランのアドリアーノ・ガッリアーニCEOによれば本田圭佑が当初は日本代表での「4番」もしくはCSKAモスクワでの「7番」を希望していた点、両番号が既にサリー・ムンタリ(4番)とロビーニョ(7番)がつけていたため断念した点、ガッリアーニCEOがケビン=プリンス・ボアテングのシャルケ移籍で空席となった「10番」を提案し本田が喜んで受け入れたとされる点
  • フットボールチャンネル(セリエA日本人選手の記憶)14年、本田圭佑。なぜミラノ中からブーイングを浴びたのか。確認した内容:2014年1月10日にサン・シーロのレセプションルームで行われた入団会見で本田が「自信がないと10番は要求しないし、駄目だった時の反動も全て理解している」と言い切った点、ミランの10番の系譜にデヤン・サヴィチェヴィッチ、ズヴォニミール・ボバン、クラレンス・セードルフらがいる点
  • Goal.com 日本データで振り返る“ミランの10番”本田圭佑の3年半…通算得点は?確認した内容:『Opta』集計による本田のミランでの通算得点が9点である点、シーズン別成績が2013-14(8位)14試合・先発12試合・1得点、2014-15(10位)29試合・先発26試合・6得点、2015-16(7位)30試合・先発23試合・1得点、2016-17(6位)8試合・先発2試合・1得点である点、通算9得点がセリエA在籍日本人のうち中田英寿24点・森本貴幸19点・中村俊輔11点に次ぐ4番目で長友佑都と並ぶ点、本田が4シーズン連続で得点を決めたのが日本人初である点、2014年1月にCSKAモスクワから加入し3年半ミランの10番を背負った点
  • サッカーダイジェストWeb「背番号によって誇張された」欧州行きを逃したミラン、伊メディアが低迷した時代の10番・本田圭佑を回想確認した内容:イタリア衛星放送『Sky Sport』が本田を「背番号によって誇張された、ミランのもうひとりの大きな流れ星」と評した点、本田が名門の10番という重圧の大きさもあってたびたび批判を浴びた点、2015-16シーズンが30試合出場1得点4アシストだった点
  • FOOTBALL ZONE本田が2014年を総括 ミランの10番としての自己評価は5段階の下から2番目確認した内容:本田が2014年最終戦後にミランの背番号10として過ごした1年間を5段階評価で下から2番目と自己評価した点、「常に自分を出すことがミランの10番としては求められている。その期待に応えられていない試合が多い」と語った点
  • フットボールチャンネル(ミランで嫌われすぎた選手)もう見たくない…。ミランで嫌われすぎた選手(2)10番には相応しくない…。確認した内容:本田が2014年1月にフリーでミランに加入した点、初ゴールが同年4月のジェノア戦までかかった点、2014-15シーズンは開幕から絶好調でリーグ戦第7節までに6得点2アシストを記録したがその後は沈黙した点
← 解説記事一覧に戻る